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2013-11-21
敷島球場とベーブルース
敷島公園が所蔵している 「都市公園事務所の歴史」(平成15年3月発行)という冊子のなかに、〈参考メモ〉戦前の敷島公園、と題するコラムがあります。『野球場は、昭和2年に運動場として造られたのが初めである。昭和5年9月24日には、前橋敷島球場として開設した。かってこの球場で日米野球大会が開かれ、ベーブルースが場外ホームランを打ち、その球は、利根川原に落ちたと言われている。』とあります。いわゆる伝説として語られているお話ですが、本当にベーブルースは敷島球場に来たのだろうか。だとするとどんな試合をしたのだろうか。ずっと気になっていました。
先月発刊された「大戦前夜のベーブルース 野球と戦争と暗殺者」原書房発行(ロバート・K・フィッツ著)という本のなかにその回答がありました。
本書は、昭和9年(1934)にあった日米野球の一戦一戦の内容と、開催に至る過程および後日談を中心に、当時の日本を知る上で参考になるお話と共にまとめられています。原書は、アメリカ野球学会が野球関連の優れた書籍に贈るシーモア・メダル(2013年度)を受賞したノンフィクション作品です。(原題 Banzai Babe Ruth :Baseball,Espionage & Assassination during 1934 Tour of Japan)
確かに、野球に興味がない人でも徐々に日本が戦争へと進んでいくその時代の雰囲気を感じさせる取材力には敬服いたしました。
日米野球のためにアメリカ大リーグ親善選抜チームが横浜港についたのは昭和9年11月2日でした。 そして、11月4日の第1戦から12月1日までの間に18試合が、日本中を旅して行われました。
11月 4日 東京(神宮球場)
11月 5日 東京(神宮球場)
11月 8日 函館
11月 9日 仙台
11月10日 東京(神宮球場)
11月11日 東京(神宮球場)
11月13日 富山
11月17日 東京(神宮球場)
11月18日 横浜
11月20日 静岡(草薙球場)
11月22日 名古屋
11月23日 名古屋
11月24日 大阪(甲子園球場)
11月25日 大阪(甲子園球場)
11月26日 小倉
11月28日 京都
11月29日 大宮
12月 1日 宇都宮
12月3日、一行は全日程を消化して、神戸まで移動し次の訪問先である上海に向け船で出発しています。さて、この日程をみると前橋の名前が見当たりません。まさかと思いつつ、ひょっとしてこの日程の合間をぬって、前橋に来た可能性はないだろうか。県立図書館で戦前の新聞を調べて見ることにしました。
「上毛新聞」は、当時、政治・経済記事が中心の地元誌です。昭和9年の11月は群馬で陸軍の大演習が行われ天皇陛下の行幸が大きな記事になっています。日米野球の記事はありませんでした。次に「群馬読売」を調べてみました。すると記事があったのです。11月4日付では、「日米野球」「愛読者を優待、切符はお早く申込み下さい」という見出しで、東京での前半日程は満席で、29日大宮球場の席に余りがあるので希望者は群馬読売の専売店に申し込んで欲しい、というもの。この記事以外に11月21日付の記事では、宇都宮で行われる日米野球の前座試合として桐生実業対宇都宮鉄道が行われることになり、「米国選手に見られても恥ずかしくない試合をする」と桐生実業主将が語ったとの見出しが大きく取り上げられています。これ以外にも2件の記事を見つけましたが、前橋に来たと思われる痕跡はついに発見できませんでした。
勝負あった感がします。念のため、12月2日付「読売新聞」を閲覧しました。
「球史を飾った18試合 全国熱狂の1ヶ月、日米大野球戦終る、米軍の本塁打47本」といった見出しが並びます。そして日米戦総成績として先に挙げた場所での成績が掲載されていたのです。
残念ながらベーブルースは敷島球場には来ていなかった、と結論付けるしかありません。だったら、なぜベーブルース伝説が生まれたのか謎です。おそらく大宮でベーブルースのホームランを見た観客が、敷島球場だったら、場外の利根川までボールが飛んだはず、との思いから、そうした伝説が生まれたのではないか、とも考えられます。子供に夢を与える「大人の知恵」だったのかもしれません。当公園のホームページでも実はこの伝説を紹介していますが、削除することといたします。
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