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2013-02-07
敷島公園と本多静六(3)
埼玉県久喜市から入手した「前橋市敷島公園計画案」は、本文の文字がよく見えないところがあります。
このブログを書くにあたって解読できないのでは話にならない。困りました。
県立図書館では見つからなかった資料でしたが、念のため前橋市立図書館資料室にお邪魔したところ、同じ資料の写しがあるではありませんか。
しかもこのシリーズ第1回でご紹介した改良設計平面図(昭和4年3月設計)は、今回の資料の方がより鮮明で詳しい。
この図面によればお隣の敷島浄水場の旧管理事務所(現在前橋市水道資料館)と前橋市水道のシンボル「水道タンク」の愛称で親しまれている配水塔の場所と施設の形がはっきり特定できます。因みにこの浄水場は平面図が書かれたのと全く同じ時期、昭和4年3月に竣工し前橋市民に給水を開始しています。平面図のこの施設の位置と大きさから類推して現在の敷島公園をなぞることができます。眼の前の霧が晴れる想いでした。
図面のほぼ真ん中にある三角形のおむすびのような場所が、大正14年(1925)に運動場として新設され、昭和2年(1927)に「敷島公園運動場」となり、更に昭和5年(1930)「敷島球場」として新設されます。現在の水泳場は左手に隣接し、当時は利根川の河原だったことがわかります。次に、左手下にある競技トラックのような形は当時の草競馬場で、この周辺が昭和25年(1950)以降、陸上競技場へと変貌をとげます。県立敷島公園が現在管理するサッカーラグビー場、補助陸上競技場それにテニスコートは左下の白紙の部分、当時はまだ桃畑だったのかも知れません。
《写真:前橋市水道資料館と配水塔(通称「水道タンク」、容量:892㎥,高さ約37m)》
市立図書館資料室の方には「利用と空間構成の移り変わりから捉えた敷島公園計画案の評価に関する基礎的考察」(ランドスケープ研究72(5)、2009年、塚田伸也、森田哲夫、湯沢昭)という研究発表論文も見つけて頂きました。(以下「文献」と称す。)難しい題名ですが、既にこの敷島公園計画案は、研究の対象になっていたのですね。
文献によれば、大正11年3月に国から前橋市に利根川河川敷及び国有林が払い下げられ、「風致的に優れた景観素質を公的に開放することで公園となった。」(大正11年10月「敷島公園」と命名)とあります。
本多静六博士が改良設計を行ったのはそれから数年後のことで、それにより「県民のための運動機能や余暇施設の拡張と専化へ(公園としての機能を拡大した公園へ)」という流れが作られたとしています。
「前橋市敷島公園計画案」(昭和4年3月)の設計思想は、主に「二、設計要旨」に表現されています。
「本公園の設計は在来自然を尊重して園の環境を善用することに努め、風景を強調すべく種々の造園的修飾を加えたるも、総てに亘りて利根川たるの感を保持せしむべく各種営造物は玉石を主材とし、その様式手法に近代的趣味を加えたりと雖(いえども)、努めて自然味を豊かに保持するに留意せり。
また、前橋市は製糸、機業の盛なる土地にして、若き男女従業者極めて多きをもって、将来それらの団体的利用の益々旺(さかん)なるべきは予想に難からず。のみならず、近隣地の夫等もまた本公園を利用すべきことの明らかにして、一般公園の如く児童及び学生が公園利用者の主体たるものと趣を異にせり。」
利根川沿いの自然環境を保持しつつ、今後増加が予想される働く若者の団体利用や近隣住民の利用を想定する。それは他の一般公園の利用とは異なる、との見解を示し、敷島公園のあるべき方向を示唆しています。また、前橋は、今とは違って、繊維産業が盛んな若者の町だったことを窺わせます。
前述の文献は、敷島公園の成立から今日までの利用形態の変遷を辿った研究の成果として、公園の利用と施設の変容について4つの段階に整理し、述べています。
Ⅰ.風景(河川敷とそこにある松林)を活用して運動施設を包容して風景を市民に開放した時代。(1920~1925)
Ⅱ.風景を保存しながら公園機能を拡張し、運動施設を専化し県民に施設利用を拡大した時代。(1926~1955)
Ⅲ.県内外の公園の利用を想定し、公園施設を観光資源として活用していった時代。(1956~1985)
Ⅳ.全国的な集客施設として公園施設機能の充実を図っている今日。(1986~現在)
「日本の公園の父」と言われる本多静六博士の改良設計案から84年、敷島公園の歴史は利用者を市民から全国へと対象を広げてきた歴史でもありました。
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