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2013-01-20
敷島公園と本多静六(2)
前回、「前橋市敷島公園計画案」の資料を埼玉県久喜市に問合せた、というのには訳があります。
計画案を作成した本多静六博士(1866~1952)は、久喜市の出身です。
久喜市は埼玉県が生んだ4偉人(塙保己一、渋沢栄一、荻野吟子、本多静六)の一人とされる同博士の業績を顕彰する事業を長年実施しており、詳細を久喜市ホームページで紹介しています。
http://www.city.kuki.lg.jp/kanko/rekishi/honda/honda_00.html
このホームページの中で博士が設計、改造に携わった全国各地の特徴ある17か所の公園を紹介していますが、その中に敷島公園の名前があるのを筆者が発見し、問合せたのがきっかけです。
博士に関する他の資料には、更に多くの具体的な公園の名前が載ったものがあります。
(参考文献:遠山 益「本多静六 日本の森林を育てた人」実業之日本社、2006年)
博士は、明治36年(1903)近代洋風公園の先駆けとなった日比谷公園を完成させて以降、大正から昭和初期にかけて、北海道釧路市春採公園から鹿児島県霧島市霧島公園までこの表だけで60か所の公園設計・改良に携わっています。時代背景を考えるとその広範囲さに驚かされます。
今回は、本多静六博士を紹介するのが目的でした。
前述の久喜市ホームページとは別に博士が晩年に著した「本多静六体験八十五年」講談社 (1952)の巻頭に「私の略歴」がありました。ご紹介します。(註:筆者補足を( )とした。)
偉人と称されるのに相応しい履歴です。
私の略歴―慶応二年(1866)、埼玉県三箇村河原井(現在は久喜市)に生まれた。十一歳の時父急逝、百姓や米つきをしながら苦学、十九の春、東京山林学校に入学、第一学期試験に落第、古井戸に投身したが死に切れず、思い直して決死的勉強の末、二学期引続き最優等で銀時計を賞賜された。これで落第するほど愚鈍な生まれつきでも、努力次第で何事にも成功するという自信を得た。
かくて働学併進が趣味となり、極端な耐乏苦学も、逆に愉快になり、満二十五歳で日本とドイツの大学を畢(お)へ、東京大学の助教授になった。その時、生涯の生き方即ち人生設計を、「四十までは勤倹貯蓄、生活安定の基礎を築き、六十までは専心勉学、七十まではお礼奉公、七十からは山紫水明の温泉郷で晴耕雨読の楽居」と定め、かつ毎日一頁以上の文章執筆と、月給四分の一天引貯金の二つの行を始めた。
そして40歳で貯金の利息が本俸以上になり、宿願-万巻の書を読み、万里の道を行く-を実行、洋行十九回、足跡を六大洲に印し、三七〇余冊の著書を公にした。教職の余暇に東京府市・内務・文部・農林・鉄道等の嘱託顧問をし、日比谷公園・明治神宮・鉄道防雪林・国立公園・水源林・行路(通り道)樹等の設計改良にあたり、また関東大震災後、復興院参与、都市計画委員、帝国森林会、庭園協会、都市美協会、学生誘掖会その他十七余の会長、副会長を兼ねた。
渋沢栄一氏等実業家の顧問としても、秩父セメント・武蔵水電・田園都市・日新ゴム等多くの開拓植林事業、各所の水力発電所の破壊問題を解決する等、民間事業にも関係した。
満六十の停年後は「人並み外れた大財産や名誉の位置は幸福そのものではない。身の為、子孫の為有害無益である」と悟り、財産の殆ど凡てを隠れた社会事業に喜捨、再び働学併進の簡素生活に帰り、七十歳までの十年間、宗教・哲学・歴史・経済・法制等の新刊書を耽読した。だが、人生学に関する限りいづれも釈迦、孔子、老荘、クリスト、ソクラテス、マルクス等の祖述又は焼直しで観念の遊戯にすぎないことに失望、たまたまアインシュタインの相対性原理を読むに及び大いに啓発され、以来七十から、新たに十年計画をたて、学生時代に若返り、「新人生学」の研究に努めている。
本多静六
つい最近、1月10日付読売新聞群馬県版に「先人を訪ねて」という記事があり、本多静六博士が紹介されていました。
ただし、この記事では残念ながら敷島公園との関わりについては触れられていませんでした。
次回は、「前橋市敷島公園計画案」の具体的な内容について触れてみましょう。
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